■本田宗一郎氏は根っからの商売人
宗一郎氏は、最初に就職した自動車修理会社からのれん分けという形で独立し、実業家としてのキャリアをスタートさせた。ビジネスは極めて順調で、事業は急拡大したが、当時の宗一郎氏は、いわゆるヤンチャな青年実業家そのものだった。当時は目が飛び出るほどの値段だった高級外車を2台も乗り回し、あげくの果てには、芸者さんを乗せて酔っ払い運転し、橋から川に転落するという大騒動を起こした。税金の支払いをめぐって税務署と揉め、腹いせに税務署にホースで水をぶっかけたという武勇伝もある。
その後、宗一郎氏は自動車修理事業からエンジンのピストンリング製造に業態を切り換え、本格的に製造業に乗り出した。当時はトヨタの下請け的な仕事だったが、トヨタがあまりにも細かいことを指示することに嫌気が差し、終戦と同時に株式をトヨタに売却して、一旦、事業からは身を引いてしまった。
その後、しばらくは合成酒を内緒で造ったり、尺八を吹いたりしてブラブラしていたが、「軍が使わなくなった小型エンジンを自転車に乗せたら面白い商品になる」とひらめき、アイデアを具現化したところ大変な評判になった。これが今のホンダの原点である。終戦直後の混乱期とはいえ、自転車にエンジンを載せただけの商品はキワモノ扱いで「あんなものはヤミ屋が乗るものだ」とバカにされたそうである。だが、利用者が求める商品を提供するという信念を持つ宗一郎氏にとってそのような悪口などまったく気にならなかっただろう。
宗一郎氏は当時を振り返り「自分がくふうしたものが人に喜ばれて役に立つということに無情の喜びを感じていた」と回想している。初期のホンダを代表する二輪車で、もはや伝説にもなっているカブとスーパーカブも女性がスカートを汚さずに乗れることを狙った商品であり、最初から顧客中心主義は徹底していた。
四輪車におけるホンダの地位を確立するきっかけのひとつとなった低公害エンジンCVCCもまったく同じ文脈で解釈できる。1970年に米国で制定されたマスキー法によって、厳しい排ガス規制をクリアできないメーカーは米国市場での販売ができなくなった。ホンダはCVCCの開発で難局を乗り切ったが、ここでも市場の動向に技術を合わせるという宗一郎氏の理念は徹底されている。
マスキー法は、強硬な環境保護論者として知られた民主党のマスキー上院議員が提案した法律であり、極めて政治色の強いものだった。今の時代にあてはめれば、まさにEUにおける脱炭素シフトとまったく同じ流れである。近年、日本の自動車業界では、欧州の脱炭素政策について「ただの政治に過ぎない」「日本メーカーをつぶすための陰謀」といった主張をよく耳にするが、宗一郎氏が存命だったら、この問題にどう取り組んだだろうか。
企業にとって大事なのは、声高に政治を論じることではなく、市場がどう変化し、顧客が求めるものを追求することである。理由が何であれ、世界の市場はEVに向けて一気に動き始めている。故人の心を読み取ることはできないが、市場と顧客を最優先するというのが宗一郎氏のDNAなら、エンジン全廃を宣言した三部氏はまさに宗一郎氏の精神を完璧に引き継いだといってもよいのではないだろうか。
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