2014年11月に逝去した自動車評論家、徳大寺 有恒。ベストカーが今あるのも氏の活躍があってこそだが、ここでは2013年の本誌企画「俺と疾れ!!」をご紹介したい。レースにまつわる昔ばなしから日本の現在へ、クルマの買い替えのタイミングはどうあるべき? 国産メーカーのルーツは? 氏の見識の豊かさ、深謀遠慮に触れる5本(本稿は『ベストカー』2013年6月10日号に掲載したものを再編集したものです/著作権上の観点から質問いただいた方の文面は非掲載とし、それに合わせて適宜修正しています)。
■レースにまつわる昔ばなし
クラシックカーレースというものが存在する。古いクルマのレースである。今に残るヨーロッパ各国のグランプリはその名残ともいえようか。
最も古いとされているのは、フランスGPである。この19世紀のモータースポーツはクルマを今日あらしめる原動力となった。レースあればこそ、クルマの最高速は向上したのである。当時のレースの多くは新聞社主催で行なわれ、自動車の発展に大きな力となった。
またエンジンのみならず燃費についても大いに向上したのだ。今日のクルマが到達したものは、多くのレースによるものともいえる。その最高峰がF1であるが、そのほかのクラシックレースも大なり小なり関係している。
クラシックレースはル・マン24時間レースをはじめ、イタリーのミレ・ミリア1000マイルレースなどは、その最たるものだろう。ミレ・ミリア、ル・マン24時間、モナコGPなどは歴史も古く多くの名シーンを演出している。
GPレースはクルマと人とのレースであり、多くの名手を生んでいる。イタリーのマントヴァ出身から空飛ぶマントヴァ人と呼ばれたタツィオ・ヌボラーリやアルゼンチン出身で5度のワールドチャンピオンに輝くファン・マヌエル・ファンジオ、そして無冠に終わったイギリス人スターリング・モスなどはどこでも走ったし、どこでも速かった。ファンジオは故郷アルゼンチンのパンパを走るレースでも速かった。
F1レースが真に国際的になる以前、モータースポーツは現代のようにシステム化されていなかったからルールも曖昧だった。
しかし、1950年から各国GPが組織化された。それでもイギリスGP以外は各国とも赤字であった。ドライバーが金をもらって走るようになったのは、けっこう最近のことなのだ。
ドライバーが自分の飛行機で飛んで回ることも最近のことだ。1965年ロータスのジム・クラークはインディ500にも勝ち、その優勝賞金で自家用飛行機を買っている。
F1パイロットは各国からの集まりだが、1950年代は貴族も多かった。タイ出身のプリンス・ビラはまぎれもなく王族の一員であったし、彼以外にも王族、貴族は多かった。ミッレ・エリアというイタリアの公道市街地レースで事故死したスペイン出身のドライバー、ポルターゴ侯爵もそうだ。
そういう時代のドライバーはむろんもてたが、同時に彼らの仕事は危険で明日をも知れぬというものであった。
明日をも知れぬリスキーな仕事、そして名家とくれば、それはもてないわけがない。しかし、やがてそれも少しずつ普通の人になり、特に日本ではフラットになっていく。それが私にはいいと思うがどうだろう。
日本も終戦以前は、明治以来の華族と呼ばれる貴族がいたのである。公、侯、伯、子、男の五爵が明治17年の華族令によって定められていた。日本は江戸から明治に代わる時に武士の中でも大名家や公家などが重んじられ爵位が与えられたのだ。
それも1945年の太平洋戦争の終了とともにGHQが日本を占領し、旧華族制も無になってしまった。現在の日本は金も名誉も自分次第で手に入れられることになっているが、本当にそうなのか。この点については調べてみなければならない。
日本国憲法によって日本人は生まれながら平等であり、出世するも金持ちになるも本人次第ということになっている。しかも、すべての人間には自由があり、働くも怠けるも自由となっている。“自由”ということではこれ以上あるまい。アメリカをはじめとする世界の国々はこうはいくまい。この“自由”ということにおいては日本はかなりであろうと思う。
と思ううちに70代も半ばになってしまった。働きたくないとは思わないし、生来の浪費家ゆえ蓄えもなく老後が心配だったが、老いるということはいろんな欲も少なくなると思える。
しかし、悟りとは遠い存在だからまだまだ欲がなくなるとはいい難く、さあて、これからどうなりますやら……。せいぜい美味しいものを食し、美女と時折話して残りを過ごすことにしようと思うが……。それもこれもある計画があってこそなのである。
それは、中国の訓話にあるごとく美女の脚に見とれて雲から落ちる仙人になってみたいと思うこのごろである……。
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