1990年代は多くの日本製マシンがWRC(世界ラリー選手権)に参戦してしのぎを削っていた。スバルはレガシィ、そしてインプレッサを投入して戦ったが、その際に勝利に大いに貢献したドライバーが今回紹介するコリン・マクレーだ!
そのマシンを表彰式に先導したのは、スコットランド出身のマクレーとはゆかりの深いバグパイプ奏者だった!
文・写真/佐久間健
■WRC通算25勝の金字塔
今回は1990年代から2000年代に活躍したコリン・マクレーの話だ。マクレーは1968年生まれで、1987年に19歳で初めてWRCに参戦した。その活躍からプロドライブのボスのデビット・リチャーズの目に留まり、1991年プロドライブに招かれた。
当時プロドライブでは富士重工と組んで、スバルレガシィでWRCに参戦を開始した。まずマクレーは英国選手権に出場し1991~1992年とチャンピオンを獲得した。
さらに翌1993年のWRCニュージーランドラリーにレガシィで出場して優勝。これがマクレーにとってもスバルにとってもWRC初優勝となった。
スバルはこの年から、新型車インプレッサをデビューさせており、レガシィによるWRC戦績は1勝のみで、インプレッサに引き継がれていく。
マクレーはこの年から10年間で25勝をあげる。この25勝を振り返り、ちょっと変わった出来事を思い出したのが今回の話である。
実はマクレーの5勝目となる1995年のRACラリー(英国開催)の時から、マクレーの出身地スコットランドで有名なバグパイプの演奏者が、ポディウムへ向かうマクレーのマシンを誘導する姿が見られるようになった。
■様々なラリーに登場するバグパイプ奏者
最初これは地元の主催者の演出だと思っていた。ところが翌1996年のアクロポリスラリーでマクレーが優勝した時にも、前回とは違う奏者が誘導していた。その後もこの年はサンレモ、カタルニアなどに登場。
だがマクレーが1999年にフォードに移籍してからは、ポルトガルに現れたのみで以降あまり見なくなった。そしてなぜかマクレーがリタイヤした2001年のRACラリーのスタートの時に現れたが、それを最後にみかけなくなった。
このバグパイプ奏者、実はマクレーに依頼されたわけでもなければ主催者の手配でもなく、熱戦なマクレーファンというのが正体であった。きっと本業の手のあいたとき、マクレーが優勝しそうなラリーを選んでかけつけていたのではないかと思う。
マクレーはこうして2002年のサファリラリーにフォードフォーカスで優勝したのが最後となり、WRCで25勝を達成。その後は、ダカールラリーやWRCにスポット参戦し、Xゲームなどにも参戦をしていたが、2007年9月7日にみずからの操縦するヘリコプター事故で命を落とした。39歳だった。
●解説●
コリン・マクレーはイギリス・スコットランド出身のラリードライバーで、今回話題にしているバグパイプはスコットランドなどで有名な楽器だ。
1985年からラリーを始め、わずか2年でWRC出場を果たす。スバルの後は、フォード、シトロエンとワークスチームを渡り歩いたが、シートを失ったのちに日産からダカールラリー出場を果たした。
その後、2005年にシュコダ、2006年にシトロエンからスポット参戦したものの目立った成績を残すことができず、2006年のトルコ戦が最後のWRC出場となった。
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