一時は3000人の従業員を抱えた犬塚製作所も、時代の波に抗えず、「特装車のデパート」からやがて専門メーカーの道を探ることになる。
その背景には、俗に「特装御三家」と呼ばれる量産型特装車メーカーの存在があった。犬塚製作所は、量産ではなく「開発物」主体のメーカーである。これからの時代、量産型メーカーには太刀打ちできないと考えたのだ。
犬塚製作所が選んだ道は、1964年の東京オリンピックを機に発展が期待できる航空事業であった。以後、犬塚製作所は空港サービス車両に特化していくことになる。
全3回の「幻の特装車アルバム」第3回は、高度経済成長期から今日までの犬塚製作所の軌跡を追う。
文/トラックマガジン「フルロード」編集部 写真・協力/株式会社犬塚製作所
*2013年5月発売トラックマガジン「フルロード」第9号より
量産型特装車メーカーの台頭
日本の高度経済成長が始まった1950年代後半、犬塚製作所は空港用の車両を手がけている。例えば1959年には航空機の燃料供給用ホースを運ぶ「ホースカート」や、シザーリフトを備えた「リフトトラック」、ハシゴ式の「高所作業車」などを製造している。
また、航空機に機内食を運ぶ「フードローダー」(航空機搭載リフト)を1961年に製造。ケータリング車のはしりとなった。いっぽう、東京オリンピックの開かれた1964年以降、航空産業が本格的な発展を遂げる。
それに合わせて犬塚製作所は、キャビンサービスカー、スカイスタンド車、汚水車、給水車、整備用高所作業車、トラッシュカー、パッセンジャーステップ車、クルーステップ車など、空港用サービス車両を次々と開発し、航空会社各社との取り引きを開始した。
この頃から犬塚製作所は、特装車の総合メーカーから空港用車両の専門メーカーへの道をたどり始めることになる。
その背景には、俗に「特装御三家」と呼ばれる新明和工業、極東開発工業、東急車輛製造(現在は新明和傘下の東邦車輛)など、量産型特装車メーカーの台頭があった。
いわゆる「開発物」と言われる少量生産の特装車を作ってきた犬塚製作所は、量産型のメーカーと比べると規模も小さく、間口を広げることは命取りになりかねない……。空港用車両の専門メーカーへ舵を切ったのは、こうした理由によるものだ。
次第に空港サービス車両に特化
この転身は、犬塚製作所にとって大きな決断だったが、それが「英断」であったことは時代が証明している。
1970年には、ボーイング747の就航にともない、各種の大型航空機用のサービス車両を納入。また、1993年、需要の拡大に対して積極的な対応を図るために、成田空港に隣接した千葉県芝山町に、新鋭の千葉本社&千葉工場(敷地3万1000平方m)を完成させた。
空港サービス車両に特化しても、犬塚製作所の開発意欲はとどまらない。2002年には、総2階建てで世界最大のジャンボ旅客機・エアバスA380用のケータリング試作車(セミプロトタイプ)を世界で初めて開発。
開発に当たっては、A380の翼やエンジン、搭載口の模型を実寸でつくり、シミュレーションを繰り返して完成させた。このクルマは、A380の大型エレベータを不要とするきっかけになったという。
空港サービス車両で絶対にあってはならないのは、機体を損傷させるなどの事故だそうだ。戦前戦後の特装車にしろ、今日の空港サービス車両にしろ、犬塚製作所の車両に脈々と受け継がれている伝統は、現場のニーズに即した開発ということかも知れない。
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