後世に語り継ぎたい「日本クルマ界 歴史の証人」日産カーデザイナー 松尾良彦【VOL.1】

■日芸から日産への入社にはちょっとした裏技が……

松尾氏が取材時に持ってきたアメリカのデザイン誌
松尾氏が取材時に持ってきたアメリカのデザイン誌
日芸入学後に授業だけでなく、ポピュラーサイエンスやオートモーティブニュースなど、アメリカの最新の雑誌から松尾氏は、世界最先端のカーデザイン手法を学んでいた
日芸入学後に授業だけでなく、ポピュラーサイエンスやオートモーティブニュースなど、アメリカの最新の雑誌から松尾氏は、世界最先端のカーデザイン手法を学んでいた

 こうした経験を持ちながら日芸に入学。日本では工業デザインそのものがまだ始まったばかりで、明確に確立されていない時代である。自動車のデザインがやりたい一心で入学してはみたのだが、なかなか大学の勉強だけでは不完全。

 そんなモヤモヤをとした気持ちを多少なりとも癒やしてくれたのが、東京の日比谷にあった米国務省所管の図書館である「ACC(アメリカン文化センター)」。

 なんとそこにはポピュラーサイエンスやオートモーティブニュースなどといったアメリカの最新の雑誌が揃い、世界最先端のカーデザイン手法を学ぶことができたのである。

 当時の日本にはまだなかったクレイモデルから削り出して立体を作り出すことなど、自動車のデザインに関する最先端がびっしり詰まった雑誌であり、私にとってはまさにバイブルが並び、通い詰めたのだ。

 そんな勉強の一環として、毎日デザインコンクールに応募したこともあった。

 ここで松下電器のステレオをデザインし、入選したこともあった。そして松下電器に受賞の挨拶に行くと「当然、うちに入るんだろうね」と言われたが、やはり気持ちは自動車メーカー1本。丁重にお断りしたが、賞金だけはちゃっかり頂き、ヤマハのバイクを買った。

 こうして充実した学生生活を送り、卒業を迎えることになった。実は日芸を卒業したら「ダイハツに入ってくれないか」と知久氏に言われていた。

 しかし、いかに恩人のお誘いとはいえ「僕はスポーツカーがどうしても作りたいんです。そうなるとダイハツでは無理だと思います」と言って説明すると知久氏は納得してくれた。

 そして4年生の夏休みになると、自動車メーカー各社が行っていた研修に参加した。私が狙ったのはもちろん大手の日産だった。

 だが、話を聞いてみると日産は“指定校制”を取っているという。デザイン部門では東京芸大か千葉大だというのである。もちろん日芸の名はなかった。だが「とりあえず研修だけ参加してみたら」ということになった。なんとも冷たい、いわゆる門前払いであった。

 それでも私は勉強や経験を自分なりに積んでいる自信はあった。芸大や千葉大のエリートと呼ばれる人たちより自動車のデザインに関しては絶対に上だという自信があった。

 「研修で指定校の連中に圧倒的な差をつけ見せつけてやろう」と決意して臨んだ。端っから差をつけられていると逆に肝が据わる。今まで以上に思いっきりよく描いたデザイン画が多くの人たちを驚かせた。その力が認められて1961年に日産入社を果たしたのだ。

 だが入社してみると、予想どおりエンジニアのほとんどが東大出身であり、デザインのセクションは東京芸大や千葉大卒が占めていた。私などはまさに異端だった。

 だが、よく見ると彼らは、ほとんど自動車をデザインしたことがなかった。私はまがりなりにも浪人中を含め、自動車のデザインを学び、いくつかの実績もあった。当然、デザイナーとしてやっていく自信も揺るがなかった。

 一方で当時のデザイン部にはチョットした問題があった。実は私が入社する少し前まで、デザイン部のトップとして率いていたのが東大出身の佐藤章蔵氏だった。

 1954年に日産の初代造形課課長となって、ダットサン110/210系と、その後継車である初代ブルーバード(310)などをはじめ、日産の主要モデルをデザインして、高い評価を得ていた人である。それだけの実績を持ちながらも、同期の東大出身エンジニアが部長職に就いたのに、佐藤氏は課長職止まりだったという。

 デザインに対する認識がまだまだ低く、それが「デザインを軽視している」ことに繋がっていると、佐藤氏は怒っていたという。そんな状況に嫌気がさしたのかもしれないが1959年に日産を辞職。

 フリーランスに転じた佐藤氏だが、前後にスライドする戦闘機のようなキャノピーを持つトヨタスポーツ800のプロトタイプのデザインを手がけるなど、その後も活躍されている。

 さて問題とは、その佐藤氏が退社された後、2世代目のブルーバード(410)や2世代目のセドリックなどを、どうするかということだった。

 そこで会社は「残ったデザイン部の人員には、まだデザインを任せられない。次の主力車種は世界的なデザイン事務所に任せよう」となった。その依頼先がイタリアの名門カロッツェリア、ピニンファリーナだったのだ。

次ページは : ■入社直後の若造デザイナーがずいぶんと生意気なことを

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