衝撃のカルロス・ゴーン逮捕から3週間が経過した。昨日、12月10日には金融商品取引法違反で再逮捕が発表されるなど騒動は未だ収束の気配を見せていない。ゴーン氏の不正については数多く報道されているが、本稿では日産の商品である“クルマ”に絞って専門メディアの視点からゴーン氏の功罪を検証したい。
カルロス・ゴーンは、1999年に日産の最高執行責任者(COO)に就任し、商品開発にも影響を与えた。1999年以後、「ブルーバード」や「サニー」、「セドリック」といった長い伝統を持つ日産車が相次いで消えていった。
日本人にできない冷徹なリストラを断行したゴーン氏だが、一方で商品開発を促進させた側面もある。
車両の開発期間を考えると、2004年に発売された初代ティーダ&同ラティオ/初代フーガ/初代ムラーノ、2005年の初代ノート/2代目ブルーバードシルフィ/3代目ウイングロード/3代目セレナ、2006年の12代目スカイライン、2007年の現行GT-Rなどは、ゴーン体制下で開発された。
実際、当時は複数の日産社員から「ゴーン体制になって社内の判断が早くなり、優れた商品開発が円滑に進むようになった」という声が聞かれた。日産の開発者やデザイナーは、ゴーン体制の前後で変わりはないが、商品力は大幅に向上している。これはゴーン体制の組織力がもたらした成果だ。
ゴーン体制の前後で日産の車種構成はどのように変わったのか。
ゴーンといえば「コストカッター」のイメージが強く、事実残すべきだったのに消滅した日産車は多い。
その反面、消滅がやむを得なかったといえる日産車もあり、日産の国内ラインナップという面では功罪ともに存在するのが実情だ。
文:渡辺陽一郎
写真:編集部、NISSAN
ゴーン体制で“消えるべくして消えた”日産車
日産の開発者からは「1990年代の中盤から後半が最悪だった。どの車種も売れず、赤字になっても仕方ないという雰囲気すら蔓延していた」という意見が聞かれる。確かに、この時期に発売された日産車は販売不振に悩み、消えるべくして消えた車種も多い。
■ラルゴ(1993-1999年、3代目=最終型)
トヨタは1990年に初代エスティマを新しい高級車として発売した。3ナンバーサイズのボディを備え、売れ筋グレードの価格は300万円を超えてクラウン並みに高かったが、注目度も高く販売は堅調だった。1992年には価格を約100万円安く抑えたエスティマルシーダ&エミーナを発売してヒットさせた。
ところが、日産は“逆のパターン”をやってしまった。1991年に比較的コンパクトな5ナンバーミニバンのバネットセレナを発売して、1993年には同車をベースとした3ナンバー車のラルゴを設定している。
ラルゴはボディが大きいのに、ホイールベース(前輪と後輪の間隔)はバネットセレナと同じだから、居住空間はあまり広がらない。中途半端で割高に感じられ、売れ行きも伸び悩んだ。
1995年にエアロパーツを装着したラルゴハイウェイスターがヒットして、この後にセレナやエルグランドにも波及するが、ラルゴ自体は成功作とはいえず、ゴーン氏が日産に訪れた1999年に生産終了した。
■レパード(1996-1999年、4代目=最終型)
初代レパードは2ドア/4ドアハードトップとして発売され、2代目は2ドアクーペになり、3代目のレパード Jフェリーはセダンに変わった。そして、1996年に発売された4代目は、セドリック&グロリアの姉妹車になっている。
コンセプトが紆余曲折して売れ行きも伸びず、こちらもゴーン氏が日産に訪れた1999年に終了した。
■ルネッサ(1997-2001年)
理解に苦しんだ車種がルネッサだ。ミニバンのようなフラットフロア構造の2列シートワゴンで、床下にリチウムイオン電池を格納すると、電気自動車に発展できると説明された。
しかしフラットフロア構造だから床が高く、室内高は不足して、後席の床と座面の間隔も足りない。後席は足を前方へ投げ出す座り方になり、荷室面積が狭まって積載性も悪かった。
外観はワゴン風だが、床が高いから高重心になり、走行安定性も良くない。メリットがほとんどない欠点だけが目立つクルマで、当然に売れず、2001年に終了した。
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