2024年12月25日午後3時53分、1978年にスズキの代表取締役社長に就任し、浜松の中小企業を世界的なメーカーへと育てあげたカリスマ経営者、鈴木修さんが悪性リンパ腫により94歳で亡くなられた。謹んでご冥福をお祈りいたします。
そこで、鈴木修さんがこれまで残してきた数々の名語録「修語録」のなかから抜粋して、名語録が生まれた背景とともに解説する。
文:片岡英明/写真:ベストカー編集部、スズキ
※本記事は2021年4月15日に本サイトに掲載された記事を一部修正のうえ再掲載したものです
【画像ギャラリー】「俺は中小企業の親父」鈴木修さんとともに歩んできたスズキの名車たち(13枚)画像ギャラリー■中小企業の親父が2021年6月に退任し相談役に
鈴木修さんが社長に就任したのは、48歳の時、鈴木自動車工業を名乗っていた時代の1978年(昭和53年)だ。その頃は浜松の中小企業、軽自動車メーカーという印象が強かった。だが、1980年代になると登録車の分野でもカルタスやエスクードなどのヒット作を出すようになる。
また、世界最大の自動車メーカーだったゼネラル・モーターズ(GM)とも提携し、燃費のいいスモールカーを積極的に提供した。未開だったインドにも進出し、1990年代にはハンガリーにも生産拠点を築いている。
鈴木修さんの経営手腕は凄かった。常に現場主義を貫き、ひらめきと行動力において誰にも負けなかったのである。だからスズキは、あれよあれよと思う間に「世界のスズキ」へと成長していったのだ。
今のスズキがあるのは、八面六臂の活躍を演じた鈴木修さんがいたからだ、と言っても過言ではない。遺した功績は驚くほど多い。人々から「修語録」と呼ばれた名言も一冊の本になるほどたくさんある。
そこで鈴木修さんらしい名言をピックアップしてみよう。「修語録」から、近い将来の自動車メーカーの生き方や生き残り戦術のヒントが見えてくるかもしれない。
【画像ギャラリー】「俺は中小企業の親父」鈴木修さんとともに歩んできたスズキの名車たち(13枚)画像ギャラリー■名語録1/GMとの提携のなかで生まれたスズキはメダカじゃなくて蚊
「ゼネラルモーターズが鯨で、うちがメダカ? いやうちはメダカじゃなくて蚊ですよ。だってメダカは鯨にのみ込まれてしまうが、蚊であれば空高く舞い上がることができるので飲み込まれない」
GMと提携した1980年代、スズキは弱小メーカーだった。が、鈴木修さんは「ぺしゃんこに潰されるのは嫌だから『この野郎』という気持ちで挑戦し続けてきた」と述べている。
不屈の精神で臨み、頑張ったから瞬く間にGMから信頼を勝ち取り、頼りになるパートナーとして認められた。小さな会社だったから巨大なライバルと対等に戦うのは難しかったが、これだけは絶対よそに負けない、特長のある会社にしたい、と鈴木修さんは常に考えていたのである。
この努力が身を結び、今では世界中の大きな自動車メーカーが、空高く舞い上がったスズキの高い技術力や次の一手に注目するようになった。
また、鈴木修さんは「スズキのクルマづくりがここまで進化できたのは、GMという『いい師匠』に恵まれて、技術者を育ててもらった」とGMに対する礼と恩も忘れていない。
コメント
コメントの使い方修語録集、持ってます。若い頃は過激な人だなぁ、上司だったらやっかいだなぁと思ってましたが、経営する立場になってくると、重くて正しくて、逃げられない格言集なんです
最期の金言「e VITARAの価格は100万円台を達成したい」、期待してます!