マツダの名を世界に轟かせた名車「コスモスポーツ」のブレーキ関連部品などを、パーツメーカーである「日清紡精機広島」が復刻させ、オーナーズクラブに納品したことを発表。今後もレストア事業を強化していくことも表明している。
近年、国産自動車メーカーが旧車部品の復刻やレストア事業にも乗り出しているが、サプライヤー自身で、このような発表を行うケースは珍しい。日清紡精機広島に、復刻の経緯と狙いについて取材した。
文/大音安弘
写真/日清紡精機広島、MAZDA
【画像ギャラリー】日清紡精機広島が手掛けたこだわりの復刻部品でコスモスポーツがよみがえる!!
■その原点はマツダと共に……
「夢のエンジン」と謳われたロータリーエンジン。その歴史は、ひとりの男の決断で大きく変わったといってもいいだろう。当時の東洋工業(現:マツダ)の社長である松田恒次氏だ。
その可能性に注目した松田恒次氏は、早速、特許を持つNSU社とライセンス契約を結ぶ。そこからマツダは、ロータリーエンジン開発に挑むことになるが、それは極めて困難な道であった。何しろ、特許を持つNSUヴァンケル社さえ、深刻な課題を抱えたままだったのである。
しかし、その未来に掛けたマツダの技術者たちの努力により、製開発の2ローターエンジンの量産・実用化に成功。軽量・高性能というロータリーの特性を体現するモデルとして、1967年に「コスモスポーツ」を発売。そのニュースは、国内のみならず、世界にも衝撃を与え、マツダのアイデンティティのひとつへと発展していく。
そのブレーキ関連部品などを供給していたのが、辰栄工業(現:日清紡精機広島)であった。
辰栄工業は、1952年(昭和27年)に広島県広島市に消防ポンプなどを製造する会社として、広島県呉市の実業家、澤原梧郎氏が創業する。その際の発起人のひとりとして力を貸したのが、同じく広島の実業家で、東洋工業(現:マツダ)の創業者の松田重次郎氏であった。
その繋がりから、辰栄工業の技術を活かしたブレーキ部品の製造が持ち掛けられ、1954年(昭和29年)より同社は、消防ポンプの製造から自動車部品製造を主力とし、マツダのサプライヤーとなる。それを機に、マツダとの関係はより深くなり、子会社化。
しかし、バブル後のマツダの経営危機により、関連会社を売却。辰栄工業も、2001年にコンチネンタル傘下のコンチネンタル・テーベス社に買収されることになる。その後、コンチネンタルの広島工場として稼働するが、グローバルへの部品供給を強化すべく、生産工場の中国に移転することが決定。
だが、同社はマツダへの部品供給も行っていたため、コンチネンタルの日本展開で協業を行っていた日清紡績(現:日清紡ホールディングス)が、辰栄工業の製品を受け継ぐ新会社「日清紡精機広島」を2007年に設立。現在は、自動車用吸排気制御バルブなどのエンジン部品とマスターシリンダーなどのブレーキ部品の開発製造を手掛けている。
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