「伝説の名車」と呼ばれるクルマがある。時の流れとともに、その真の姿は徐々に曖昧になり、靄(もや)がかかって実像が見えにくくなる。ゆえに伝説は、より伝説と化していく。
そんな伝説の名車の真実と、現在のありようを明らかにしていくのが、この連載の目的だ。ベテラン自動車評論家の清水草一が、往時の体験を振り返りながら、その魅力を語る。
文/清水草一
写真/いすゞ
■気鋭の30歳が生み出した名デザイン
「ジウジアーロ」という名は一種の魔法だ。それが付いているだけで別格になる。デザインが美しすぎて、なんだかよく理解できなくても、「ジウジアーロだから」と言われれば1億パーセント納得だ。
巨匠ジョルジェット・ジウジアーロ氏がデザインした国産車は少なくないが、その代表作のうち2台は、いすゞが世に送り出している。117クーペと、初代ピアッツァだ。
1968年に登場した117クーペは、ひと目で女優だとバレてしまうようなクルマだった。当時ジウジアーロ氏は30歳。マセラティ ギブリに代表される、イタリア的にセクシーなデザインを、次々と生み出していた時期だ。
一方、117クーペの後継モデル・初代ピアッツアの登場は、その約10年後。その間に氏は、初代フォルクスワーゲン ゴルフや初代フィアット パンダといった革命的な小型車だけでなく、スポーツカーでは映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に登場したデロリアンなどを手掛け、時代を10年、20年先取りする超先進的な自動車デザイナーへと進化していた。
ジウジアーロ氏が、ピアッツァの前身となったショーカーを、「アッソ・デ・フィオリ」の名で1979年のジュネーブショーに出展したのは、まさにそんな時代だ。氏はそれを、「80年代のボディライン」であると語ったという。カッコよすぎる……。
■初めて見たピアッツァは謎だらけだった
初代ピアッツァが発売されたのは、2年後の1981年だ。個人的には免許を取った翌年で、初代ソアラに心を奪われていた。ソアラは、何も知らない若造にもそのカッコよさがダイレクトに理解できたが、ピアッツァの美しさはやや難解で、どこか芸術の香りがした。
当時ピアッツアは、日本人には発音の難しい車名とともに、パワーよりも美や先進性を優先したハイブラウなスポーツカーであり、形は「マヨネーズみたい」と言われたりした。ただの若僧だった私は、そのマヨネーズを見るために青山のショールームへ行き、じっくり眺めてみたが、ピアッツァはあまりに敷居が高すぎて、退散するしかなかった。
エンジンは4気筒1.9LのDOHC(135馬力)とSOHC(120馬力)。いすゞのDOHCはどんなフィーリングなんだろう。荒々しいと自動車雑誌には書いてあるけれど、荒々しいツインカムのフィールとはいったいどんなものなのか。ツインカム自体をまだ知らない童貞には、すべてが謎だった。わかるのは、ピアッツァのフォルムが美しすぎること。そして、あの少しだけ開く瞳(セミリトラクタブルヘッドライト)の、控えめな色気くらいだった。
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