2014年11月に逝去した自動車評論家、徳大寺 有恒。ベストカーが今あるのも氏の活躍があってこそだが、ここでは2013年の本誌企画「俺と疾れ!!」をご紹介したい。
戦後の自動車産業、ブルドッグ・ブリティッシュオープン購入で悩む読者へ、高すぎる税金について……。クルマ界の巨匠が残した金言は月日が経っても色褪せない。
(本稿は『ベストカー』2013年4月10日号に掲載したものを再編集したものです/著作権上の観点から質問いただいた方の文面は非掲載とし、それに合わせて適宜修正しています)
■戦後の自動車産業
古い東宝映画『社長シリーズ』を見ていると1957年製のダッジがでてきた。これが社長のクルマなのであるが、当時のクライスラーはテールフィンで一世を風靡したものだ。1955年から1959年の間、クライスラーのクルマは巨大なテールフィンがついていた。
GMのキャデラックは1940年代の終わりから、このリアフェンダーがあったが、1950年からのクライスラーは特にすごかった。
チーフデザイナーだったエクスナーのデザインで、当時の日本車も大きな影響を受けた。特に、プリンスはスカイライン、グロリアとこのテールフィンを採りいれた。トヨペット・クラウンもささやかながらこれであった。
クライスラーにはダッジ、プリムス、イーグル、インペリアル、デソートなどのブランドがあった。アメリカナンバーワンのGMはシヴォレー、ビュイック、ポンテアック、オールズモビル、キャデラック、GMCというブランドがあった。
ナンバー2はフォード、マーキュリー、リンカーン、コンチネンタルという分類だった。このほかGMはオーランドというブランドもあった。しかし、やがてクライスラーが傾き、巨大なGMも危うくなるのだ。まさしくアメリカは自動車会社の浮き沈みが激しかった。
これに対していち早く海外マーケットに進出した日本は、おおむね元気に自動車会社としてやっている。
これはひとつに旧通産省の強い指導もあったが、何よりもメーカー自身の努力のたまものであろう。特にトヨタ、日産の外国車に追いつこうという努力はすごかった。そしてプリンスは日産に吸収されたが、ダイハツもスズキも生き残った。このことは自動車史にあって、次々になくなったアメリカと対照的な出来事として特筆されるべきであろう。
もちろん多くの小さなメーカーはなくなっていったのだが、上場以上のいわゆる大メーカーは生き残った。
アメリカではパッカードがなくなり、初期のメーカースチュードベーカーがなくなり、まさしく死屍累々といったところだ。もちろん会社の名前が消えたり、変わったりしたところもある。先に述べたプリンスのほか軽自動車メーカーはなくなったところが少なくない。日本オートサンダル、昌和製作所、富士自動車、ホープ自動車……etc。
なかでも私が特に惜しいと思うのが、住江製作所のフライングフェザーだ。ここはデザインセンスがあった。フジキャビンも手がけた富谷龍一氏の設計によるものだ。
日産も1990年代に大ピンチだったがフランスのルノーに助けられた。この日産に吸収されたプリンスも独立した会社として生き残ってほしかった。
最近円安傾向で業績が上向きというが、現在でも自動車会社はその為替や原油価格、資源問題など不安定なところが多い。トヨタはかつてピンチがあったが、立ち直り、いまや世界一の自動車会社に成長した超優良企業だ。
自動車会社はどれもブランドが世界的だし、ビジネスもワールドワイドだから危うくなると、あっという間に危険ゾーンに入ってしまう。
マツダも富士重工も危ないことはあった。しかしなんとか凌いでいまのカタチがあるのは喜ぶべきことだろう。自動車会社は図体こそ大きいがもろいことこの上ない。多くの従業員のためにも経営者にはがんばってほしいものだ。
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